LOGINひとつ消えた魔法灯は、次の瞬間、ふたつ、みっつと連なるように光を失った。
広間の一角が、すうっと暗くなる。楽団の演奏が途切れ、踊りの輪のあちこちで小さな悲鳴が上がった。 暗がりの中心に、ルカがいた。 片膝をついて、胸元を押さえている。その足元から、青白い光の筋が床の上に広がっていた。光が這ったところから、磨かれた石の床に、うっすらと霜が降りていく。 「魔力が暴走してる! 皆さん、下がって!」 フェリクスさんの声が響いた。人々が慌てて後ずさり、ルカの周りにぽっかりと空間ができる。 私は、その空間に向かって歩き出していた。 重たい青いドレスの裾を両手でつかんで、広間の真ん中を突っ切った。 銀糸の刺繍がしゃらしゃらと鳴る。誰かが「ヴァレンティ嬢!」と呼んだ気がしたけれど、振り返らなかった。 「ヴァレンティ様、近づいちゃだめです! 今のノーラン様の魔力は」 フェリクスさんが腕を広げて止めようとした。 「大丈夫です。昔も、こうなったことがありますから」 十歳のルカが、寝台の上で魔力をあふれさせた冬の夜。部屋中の水差しが凍って、窓が割れた。大人たちが怖がって部屋に入れずにいたとき、私はルカの手を握って、絵本の続きを読んだ。そうしたら、少しずつ部屋が温かくなったのだ。 霜の降りた床に膝をつくと、ドレス越しに冷たさが染みてきた。 「ルカ」 うつむいたルカの顔は、紙のように白かった。額にびっしりと汗が浮いているのに、吐く息が白い。 「……エレナ。来ちゃ、だめだ」 「だめじゃないわ」 私は、胸元を押さえているルカの手を、両手で包んだ。 氷のように冷たかった。指先が細かく震えている。数日前、研究室で同じように手を重ねたとき、ルカはそっと私の手を外した。婚約者のいる人が、こういうことをしちゃいけない、と。 今は、外させない。 「ルカ。ゆっくり息をして。私はここにいるから」 子どもの頃と同じ言葉が、自然に口からこぼれた。 ルカの震えが、ほんのわずかに弱くなった。 足元の青白い光が、少しずつ薄れていった。床を覆いかけていた霜が、溶けて細い水の筋になる。消えていた天井の魔法灯が、ひとつ、またひとつと、弱々しく灯りを取り戻していく。 周りを囲んでいた人々の間から、ほうっと息がもれた。 「……落ち着いた?」 「信じられない。院長でも、抑えるのに半刻はかかるのに」 フェリクスさんが、呆然と呟いた。 人垣の後ろから、白い髭の老魔術師が駆けつけてきた。魔術院の院長様だ。ルカの手首に指を当てて脈を確かめ、それから私の手と、ルカの顔を、まじまじと見比べた。 「ヴァレンティ嬢。あなたが触れて、魔力が鎮まったのですかな」 「はい。昔から、こうするとルカは楽になるんです」 院長様は何か言いかけて、ふと口をつぐんだ。それから、意味ありげに顎髭を撫でた。 「……なるほど。魔力は、心と繋がっておりますからな」 「心?」 「いや、こちらの話です。すぐに魔術院の医務室へ運びましょう」 周りで見守っていた方々のささやき声が、耳に届いた。 「なんて勇敢な」 「あの暴走の中に、ためらいもなく」 「ご自分の幼なじみだからといって、なかなかできることではありませんわ」 「エレナ!」 人垣が割れて、殿下が駆け込んでいらした。 テラスから戻られたのだろう。夜風に乱れた金色の髪の下で、殿下の目が、床に膝をついた私と、私が握っているルカの手に、まっすぐ注がれた。 「何をしている。離れろ」 「殿下。ルカの魔力が暴走して」 「見ればわかる。だからといって、婚約者が人前で他の男の手を握るなど」 殿下の声が、静まりかけていた広間に響き渡った。 近くにいた夫人たちが、扇の陰で顔を見合わせた。 「まあ……倒れた方を前にして」 「今、それをおっしゃるの?」 マルグリット公爵夫人が、人垣の最前列から一歩進み出た。 「殿下。人の命がかかっているときに、手を握る握らないのお話をなさるのは、いささか器が小さく見えましてよ」 殿下の顔がこわばった。何か言い返そうとして、周りの視線に気づいたように、口をつぐむ。 けれど、その目はまだ、私とルカの重なった手から離れなかった。 見たことのない目だった。悔しそうで、それでいて、どこか怯えているような。 「殿下」 私はルカの手を握ったまま、殿下を見上げた。 「申し訳ございません。今は、ルカを優先いたします」 口にしてから、気がついた。 殿下に教わりましたので、とは、言わなかった。 言うのを忘れていた。 魔術院の医務室は、王宮の東の棟にあった。 担架で運ばれたルカは、寝台に横たえられると、すぐに深い眠りに落ちた。院長様は、魔力を使い果たしただけで命に別状はない、朝までには目を覚ますでしょう、とおっしゃった。 「どなたか、付き添いを」 「私が残ります」 誰よりも先に、私は答えていた。院長様は、何も聞かずに頷いてくださった。 フェリクスさんと院長様が出ていくと、医務室には、ルカの寝息と、暖炉の薪がはぜる音だけが残った。 寝台の横の椅子に腰を下ろして、私はようやく、自分の手が震えていることに気づいた。 青いドレスの裾は、膝のところがぐっしょりと濡れて、銀糸の刺繍がいくつかほつれていた。殿下からいただいたドレスなのに。けれど、少しも惜しいと思わなかった。 ルカの寝顔を見つめる。 広間で、霜の降りた床にうずくまっていた姿が、まぶたの裏から消えない。 あのとき、私は何も考えていなかった。殿下のお言葉も、王子妃の心得も、婚約者としての立場も、何ひとつ頭になかった。 ただ、怖かった。 ルカがいなくなってしまうかもしれないと思ったら、足が勝手に動いていた。 ――大切な幼なじみよ。 シア様にそう答えたとき、言葉が足りないような気がした。何が足りなかったのか、今ならわかる。 教えだから、ではなかった。 私は、ルカを失いたくないのだ。 幼なじみだからではなく、ルカだから。 暖炉の火が揺れて、ルカの頬に柔らかな影を落とした。 私は膝の上で両手を握りしめて、その横顔から目を逸らすことができなかった。夜が更けると、医務室の窓の外はすっかり静かになった。 大広間のほうからかすかに聞こえていた楽団の音も、いつの間にか途絶えている。夜会は終わったのだろう。殿下がどうなさったのかは、わからなかった。誰も知らせに来なかったし、私も尋ねなかった。 部屋の隅の椅子では、医務係のハンナさんが膝掛けにくるまって、こくりこくりと舟を漕いでいた。白髪をきっちり結った年配の女性で、「未婚のお嬢様を、殿方と二人きりにはできませんからね」と、付き添いを買って出てくださったのだ。 暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。 私は寝台の横の椅子に座ったまま、眠るルカの顔を見つめていた。 広間で見たときよりも、顔色は少しよくなっていた。唇にほんのりと赤みが戻り、呼吸も規則正しい。額の汗は、さっき濡らした布で拭いておいた。 眠っているルカの顔は、昔とあまり変わらなかった。 睫毛が長いところも、眉間に小さく皺を寄せて眠るところも。熱にうなされていた十歳のルカは、いつもこんなふうに眉をひそめていた。私はその皺を指で伸ばしてあげるのが好きだった。 指を伸ばしかけて、止めた。 今の私には、そうする理由がない。 熱を出して寝込んでいる子どもではないと、ルカは言った。私だって、もう六歳の女の子ではない。第二王子殿下の婚約者で、来年の春には王家に嫁ぐことになっている。 宙に浮いた指先を、膝の上に戻した。 ルカを失いたくない、と思った。 幼なじみだからではなく、ルカだから。 自分の気持ちに名前がついてしまうと、これまでのことが、まるで違う色に見えてきた。 毎朝、籠に焼き菓子を詰めながら、ルカは今日もちゃんと食べるだろうかと考えていたこと。研究室の扉を開けるとき、少しだけ胸が弾んでいたこと。ルカが椅子を出しておいてくれた日、なんだか一日中嬉しかったこと。手を外されたとき、胸が痛かったこと。 全部、殿下の教えを守っていたからではなかった。 私は、ルカに会いたかったのだ。 気づかなかった。気づかないまま、毎日のように通って、殿下の言葉を盾にしていた。 もし、殿下が「当然だ」とおっしゃらなかったら。私はきっと、自分がルカに会いたいのだということにさえ、一生気づかなかった。 気づかないほうが、よかったのかもしれない。 私は、殿下の婚約者だ。 王
ひとつ消えた魔法灯は、次の瞬間、ふたつ、みっつと連なるように光を失った。 広間の一角が、すうっと暗くなる。楽団の演奏が途切れ、踊りの輪のあちこちで小さな悲鳴が上がった。 暗がりの中心に、ルカがいた。 片膝をついて、胸元を押さえている。その足元から、青白い光の筋が床の上に広がっていた。光が這ったところから、磨かれた石の床に、うっすらと霜が降りていく。 「魔力が暴走してる! 皆さん、下がって!」 フェリクスさんの声が響いた。人々が慌てて後ずさり、ルカの周りにぽっかりと空間ができる。 私は、その空間に向かって歩き出していた。 重たい青いドレスの裾を両手でつかんで、広間の真ん中を突っ切った。 銀糸の刺繍がしゃらしゃらと鳴る。誰かが「ヴァレンティ嬢!」と呼んだ気がしたけれど、振り返らなかった。 「ヴァレンティ様、近づいちゃだめです! 今のノーラン様の魔力は」 フェリクスさんが腕を広げて止めようとした。 「大丈夫です。昔も、こうなったことがありますから」 十歳のルカが、寝台の上で魔力をあふれさせた冬の夜。部屋中の水差しが凍って、窓が割れた。大人たちが怖がって部屋に入れずにいたとき、私はルカの手を握って、絵本の続きを読んだ。そうしたら、少しずつ部屋が温かくなったのだ。 霜の降りた床に膝をつくと、ドレス越しに冷たさが染みてきた。 「ルカ」 うつむいたルカの顔は、紙のように白かった。額にびっしりと汗が浮いているのに、吐く息が白い。 「……エレナ。来ちゃ、だめだ」 「だめじゃないわ」 私は、胸元を押さえているルカの手を、両手で包んだ。 氷のように冷たかった。指先が細かく震えている。数日前、研究室で同じように手を重ねたとき、ルカはそっと私の手を外した。婚約者のいる人が、こういうことをしちゃいけない、と。 今は、外させない。 「ルカ。ゆっくり息をして。私はここにいるから」 子どもの頃と同じ言葉が、自然に口からこぼれた。 ルカの震えが、ほんのわずかに弱くなった。 足元の青白い光が、少しずつ薄れていった。床を覆いかけていた霜が、溶けて細い水の筋になる。消えていた天井の魔法灯が、ひとつ、またひとつと、弱々しく灯りを取り戻していく。 周りを囲んでいた人々の間から、ほうっと息がもれた。 「……落ち着いた?」 「信じられない。院長でも、抑えるのに
王宮の大広間は、天井から吊るされた無数の魔法灯で、昼間のように明るかった。 淡い金色の光が、磨き上げられた床に映り込んでいる。光の粒がゆっくりと降りてきては、人々の肩の上でふっと消える。結界の総責任者が誰なのかを知っているので、私は思わず天井を見上げて、小さく息をついた。きれいだ。ルカの魔法は、昔から優しい色をしている。 「エレナ。よそ見をするな」 隣から、殿下の低い声がした。 「申し訳ございません。灯りがあまりにきれいで」 「……灯りなどどうでもいい」 殿下は私の手を取って、ご自分の腕にしっかりと絡めさせた。今夜はずっとこうだ。広間に入ってから、殿下は一度も私の手を離さない。 重たい青いドレスの裾をさばきながら、私は殿下の歩調に合わせた。銀糸の刺繍が、歩くたびにしゃらしゃらと鳴った。 殿下は、会う人ごとに私を紹介した。 「婚約者のエレナだ」 そう言うたびに、相手の方々は丁寧に礼を返してくださった。それから、ほんの一瞬だけ、私の顔と殿下の顔を見比べる。扇の陰で口元を隠す夫人もいた。 「ヴァレンティ嬢。今夜は、殿下にお教わりになったことは、お休みかしら」 声をかけてきたのは、マルグリット公爵夫人だった。今夜は深い葡萄色のドレスで、白髪に真珠を散らしている。 「公爵夫人。先日はありがとうございました」 「いいえ、こちらこそ。あの日の茶会は、私の長い社交人生でも指折りの楽しさでしたわ」 殿下の腕が、ぴくりと強張った。公爵夫人は気づかないふりをして、優雅に扇を揺らした。 「そのお色も素敵ね。殿下のお見立て?」 「はい。殿下が贈ってくださいました」 「まあ。ずいぶん、はっきりしたお色だこと」 公爵夫人は目を細めて、殿下に向き直った。 「殿下。大切な方は、飾り立てるより、似合うものを着せておあげなさいな」 殿下が何か言い返す前に、公爵夫人はもう人波の中へ消えていた。 最初の曲が始まる少し前、広間の反対側の壁際に、黒い礼服の背の高い姿が見えた。 ルカだった。結界の様子を見回っているのだろう。同僚のフェリクスさんと何か言葉を交わしながら、天井の魔法灯を見上げている。 遠目にも、顔色が白いのがわかった。 「ルカ……」 思わず名前がこぼれた。 その瞬間、殿下が私の腕を強く引いた。 「エレナ」 周りにいた何人かが、こちらを振り向
王宮から秋の夜会の招待状が届いたのは、シア様に焼き菓子を教えた三日後のことだった。 収穫祭を祝う、年に一度の大きな夜会だ。王家の方々はもちろん、国中の貴族が集まる。婚約者のいる令嬢は、その相手にエスコートされて出席するのが決まりだった。 招待状と一緒に、王家の紋章入りの大きな箱がひとつ届いた。 居間で蓋を開けると、中には目の覚めるような青いドレスが畳まれていた。胸元から裾まで、銀糸の刺繍がびっしりと施されている。 「まあ、きれい」 添えられたカードには、殿下の角ばった文字でこう書いてあった。 『夜会当日は、これを着て、俺の傍を離れるな』 「殿下が贈り物をくださるなんて、初めてだわ」 私がカードを眺めていると、後ろからお父様が覗き込んで、低く唸った。 「殿下の瞳の色か」 「そうなのですか?」 「誰の婚約者か、一目でわかるようにということだろう」 お父様は鼻を鳴らして、ドレスの裾を指先でつまんだ。 「……生地はいいが、お前の肌には少し強すぎる色だな」 「お父様、せっかくの贈り物ですのに」 「わかっている。わかっているとも」 お父様はそれ以上何も言わず、ドレスの箱をミナに預けて、書斎に戻っていかれた。 ミナは箱を抱えたまま、ドレスをじっと見下ろしていた。 「お嬢様。この刺繍、たいそう重そうでございますね」 「そうね。踊るときに、裾をうまくさばけるかしら」 「……殿下は、お嬢様と踊るおつもりなのでしょうか」 「どうかしら。シア様のお加減次第ね」 ミナは何か言いたげに口を動かしたけれど、結局、黙って箱の蓋を閉じた。 翌日、魔術院の廊下はいつになく慌ただしかった。 若い魔術師たちが、光る石の詰まった木箱を抱えて行き来している。夜会の会場を照らす魔法灯と、王宮全体を守る結界の準備なのだと、顔なじみになった魔術師のひとりが教えてくれた。 「ノーラン様が、結界の総責任者なんです」 フェリクスという名のその人は、くせのある赤毛をかき上げて、少し声を落とした。 「ヴァレンティ様。差し出がましいようですが、ひとつだけ」 「はい」 「ノーラン様、ここ数日、ほとんど寝ていないんです。魔力の調子もよくなくて、院長からは夜会の担当を外れて休むように言われたんですが」 「まあ。それなら、休まなければ」 「本人が、どうしても自分でやると。
シア様が初めてヴァレンティ家へいらしたのは、ローレン家を訪ねてから四日後の、よく晴れた午後だった。 「お体は大丈夫ですか。無理はなさらないでくださいね」 「今日は朝から、とても調子がいいんです。母には、エレナ様に焼き菓子を習いに行くと言ったら、喜んで送り出してくれました」 馬車から降りたシア様は、淡い水色の外出着を着ていた。ショールを羽織っていない姿を見るのは、初めてだった。 厨房に案内すると、料理長が目を白黒させた。侯爵家の令嬢と子爵家の令嬢が並んで前掛けをつける光景は、さすがに見たことがなかったらしい。 「本日は、私どもは手を出さないほうがよろしいので?」 「ええ。見ていてくださるだけで大丈夫よ」 料理長はしぶしぶ、けれどどこか楽しそうに、厨房の隅の椅子に腰を下ろした。 最初に作るのは、いちばん簡単な、バターの焼き菓子にした。 「バターは、指で押してすっと沈むくらいまで柔らかくしておくんです。砂糖を入れたら、白っぽくふわっとなるまで混ぜて」 「こう、ですか」 シア様は真剣な顔で木べらを動かした。腕に力が入りすぎて、ボウルがかたかたと揺れる。 「もう少し、ゆっくりで大丈夫ですよ。急がなくても、ちゃんと白くなりますから」 私はシア様の後ろに回って、木べらを持つ手にそっと手を添えた。母に初めて教わったときも、こうしてもらった。 「……本当だわ。色が、変わってきました」 「ね。ここが、いちばん楽しいところなんです」 粉を振るって、卵を少しずつ足して、生地をまとめる。シア様は一つひとつの手順を、口の中で小さく繰り返していた。 型で抜いた生地を天板に並べ終えると、シア様は粉で白くなった自分の手を、不思議そうに眺めた。 「自分の手で何かを作るなんて、初めてかもしれません」 「刺繍は? 貴族の令嬢は、みんな習うでしょう」 「熱を出すと、針を持つ手が震えてしまって。母が、危ないからやめなさいと」 シア様は少し笑った。 「ずっと、何もしないことが私の仕事だったんです。寝ていること。熱を出さないこと。人様にご迷惑をかけないこと」 窯から、バターの焼ける甘い匂いが漂いはじめていた。 「シア様」 「はい」 「焼き上がるまで、お茶にしましょう。焼き菓子は、待っている時間もおいしさのうちなんです」 シア様は目を瞬かせて、それから、ふわり
エレナが帰ったあとの部屋は、いつも少しだけ広く感じる。 机の端には、彼女が置いていった薬草茶の包みと、蜂蜜の焼き菓子がふたつ。今日は来るのが遅かったから、ひとつ分けて食べたきり、残りは明日の朝にと言われた。 僕は椅子の背にもたれて、窓辺に浮かぶ青い石を眺めた。 ひとつ、またひとつと、わずかに軌道がぶれている。 魔力の流れが乱れているのは、自分がいちばんよくわかっていた。原因も。 「ローレン家の門の前で、殿下とお会いしたの」 今日の夕方、エレナはいつもの椅子に座って、ひどく楽しそうにそう言った。 シア嬢の見舞いに行って、帰りに殿下と鉢合わせて、「ルカのところへ参ります。殿下に教わりましたので」と言って出てきたのだと。 僕は頭を抱えたくなるのを、どうにかこらえた。 彼女には悪意がひとかけらもない。だからこそ、言われた側には逃げ道がない。殿下の顔がどんな色になったか、見なくても想像がついた。 「エレナ。あまり殿下を追い詰めないほうがいい」 「追い詰める? 私は、殿下のお言葉をお守りしているだけよ」 「わかってる。わかってるけど、君の評判が」 「評判なら、皆さん、楽しそうに私の言葉を使ってくださっているわ。ミナが教えてくれたの」 そう言って笑う顔があんまり無邪気だったので、僕はそれ以上何も言えなくなった。 いつもそうだ。彼女の前では、言うべき言葉がひとつも出てこない。 エレナと初めて会ったのは、僕が十歳の冬だった。 その頃の僕は、一年の半分を寝台の上で過ごしていた。体に収まりきらない魔力が熱になって、額から胸から、内側を焼いた。医師は、成長すれば落ち着くと言った。落ち着く前に体が持つかどうかは、誰にもわからないとも。 隣の屋敷の小さな女の子が、母親に手を引かれて見舞いに来たのは、そんな夜が続いていた頃だった。 六歳のエレナは、真っ黒に焦げた焼き菓子を、大事そうにハンカチに包んで持ってきた。 「お母様に教わったの。初めて焼いたのよ。少し、焦げちゃったけど」 少しどころではなかった。ひと口かじると、苦くて、粉っぽくて、ひどい味がした。 でも、彼女がじっと僕の顔を見ていたから、全部食べた。 「おいしい?」 「……うん」 次の日も、その次の日も、エレナは来た。焼き菓子は少しずつ焦げなくなって、そのうち、ちゃんとおいしくなった。熱で







